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最近ワイドショーで騒がれているお話。
私はワイドショーなるものを見ないので、番組欄の文字でしか知らぬが・・・。

マインドコントロールって怖いね、洗脳って怖いね、って言うけれど。
私が一番怖いと思うのは、『そういうものに依存するほど、寂しかった』 ということ。
きっかけば失恋だったかもしれない。うまくいかない仕事だったのかもしれない。自分より幸せそうな、うまくいっている誰かの存在だったのかもしれない。

でもさ。

世の中のすべてが自分の思うようにはいかない、すべての人の心が自分のものにはならない、って事実は、中学生くらいのときに大抵は悟ると思う。
で、そこから始まるわけです。世の中と、世界と折り合いをつけていく術を、自分なりに見つけて、身に着けてゆく。
その過程で、ものすごく辛かったりもするんだけど、まあ、生きていくためには絶対に必要なことなので、やらざるを得ない。

そこで、それぞれの方法で乗り越えてゆくと思うんだけど、多分、一番辛いのは孤独なのだと思う。
一緒にがんばってくれる人。声をかけてくれる人。一緒にごはんを食べたり、一緒の時間をすごしたりしてくれる人。
そういう存在がいるだけで、全然違うと思う。

でも、いなかったら。
自分をそこまで辛くした事実よりも、いつしかその寂しさが、自分を追い詰める。


話はちょっと変わるけれど、弟2号は一人暮らしをするようになってから、やたらとオバケさんを見るようになった。引っ越す先々で、色んなオバケさんを見たらしいが、声を聞いたこともあるらしい。
なんと言ったのかと聞いたら、予想外の言葉だった。
それは。
「・・・・・さみしい。」


それを聞いたとき、ぞっとしたのと同時に、なんだか妙に納得したのを覚えている。
うらめしいとか、殺してやるとか、そういうのって動的な感情だと思うんですよ。そう思う原因もあるし、対象もいるし、一人じゃない。負の感情ではあるけれど、相手があってこその感情。
でも、寂しいっていうのは違う。自分の心の中に、誰もいないという孤独。
死後の世界があるのかどうか分からないけれど。彼岸にも行けず、此岸にも戻れない世界は、とてつもなく暗くて広くて、一人なのだろうと思った。


孤独につけこむ存在も悪い。
しかし、辛いときに手を握る相手を間違えてはいけない。
どんなに辛くても、手を握る相手は、心を持った生きた人間であったり、大事な思い出であったり、積み重ねた自分の実績や経験でありたい。
決して、寂しさと手を繋いではいけない。
寂しさと手を繋いでしまったら、いつしか、とんでもなく遠い場所に連れていかれ、気がつくと真っ暗な谷底に一人で置いていかれてしまうのだ。


ちなみに、私はこれまでの人生の中で何度かいじめられたり、仲間はずれにされたりしたことがあるが(驚くことに、社会人になってもそういうことってあったんですよ。怖いですね、未熟な大人って)、一番辛かったことは、いじめられたことよりも、『周囲の人に見て見ぬふりをされたこと』。
知っているのに、見ていたのに、まるで見えない、聞こえないかのように振る舞い。何事もなかったかのように私と話す。
なんだか自分が透明人間になったような。この世に存在しない人間になったような。「彼女たち、彼らは同級生ではあるけれど、友達ではなかったんだ」 と気づいたときのあのうすら寒さ。
数十年経った今に思い出すのは、私をいじめた人たちのことではなく、『なにもなかった』 という顔をしていた同級生や同僚たちの存在。


私はもう、人の親となったので。
寂しさが自己憐憫や現実逃避という甘いお菓子を携えて手を伸ばしてきても、それを振り払って、辛い現実を見ながら自分の足で前に進むことを息子に教えなければなりません。
がんばらないとね。





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